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第5話 価値のない女

Author: marimo
last update publish date: 2026-06-06 23:06:48

その日、私は掃除をしていた。

誰に言われたわけでもない。

ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。

朝から冷たい雨が降っていた。

窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。

以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。

「寒かったでしょ」

そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。

でも今、その場所にいるのは私じゃない。

私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。

雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。

フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。

ソファの上には、玲奈のブランドバッグ。

テーブルには飲みかけのカフェラテ。

昨日までなかった香水の匂いが、この家に染みつき始めている。

私は黙ったまま、床を拭き続けた。

すると、カツ、カツ、とヒールの音が近づいてくる。

ゆっくり顔を上げると、相沢玲奈が立っていた。

腕を組み、私を見下ろしている。

「……ねえ」

その声音は柔らかいのに、どこか人を試すようだった。

「そこ、ちゃんと掃除して。私、埃アレルギーなの。」

「……はい」

返事をすると、彼女は満足そうに笑った。

「素直で助かります。そういうところ、使いやすくて」

“使う”。

その言葉が、胸に残る。

まるで私は、人間じゃなく道具みたいだった。

けれど、玲奈はそんなこと気にも留めない。

私の横を通り過ぎ、ソファへ腰掛けると、スマホを操作しながら言った。

「でも、元々こういうこと向いてたんじゃないですか?」

「家庭的っていうか……他に取り柄なさそうだし」

返す言葉はなかった。

悔しいのに、何も言えない。

言い返したところで、また惨めになるだけだと分かっていたから。

昼過ぎ。

玄関のドアが開く音がした。

黒崎俊哉が帰ってきたのだ。

今日は珍しく機嫌が良さそうだった。

ネクタイを緩めながらリビングへ入ってきた俊哉は、私を見るなり口を開く。

「聞いたぞ」

心臓が小さく跳ねる。

「お前、ちゃんと掃除してるらしいな」

一瞬だけ、胸の奥に小さな期待が生まれた。

褒められたのかもしれない、と。

けれど。

彼はすぐに笑った。

「玲奈が言ってたぞ。“元カノさん、家政婦としては優秀”って」

元カノさん。

その一言で、心臓が強く跳ねた。

まるで、自分の存在を勝手に書き換えられたような感覚。

「……私、まだ別れ話されてません」

勇気を振り絞ってそう言うと、俊哉は一瞬きょとんとした顔をした。

そして次の瞬間、吹き出す。

「は?」

乾いた笑い声。

「何言ってんだよ、もう終わってるだろ。お前が居座ってるだけだ」

隣で玲奈も笑う。

「元カノさんって、立場にすがりつくタイプなんですね」

「見苦しい」

その言葉が、刃みたいに刺さる。

玲奈は俊哉の腕に軽く触れながら、わざとらしくため息をついた。

「俊哉、ちゃんと言ってあげないと……ひかるはもう、“彼女”じゃないって」

次の瞬間。

俊哉の手が、私の顎を掴んだ。

強い力。

逃げようとしても動けない。

「お前はな、俺に捨てられた、出来損ないだ」

指が食い込む。

痛い。

けれど、それ以上に苦しかったのは、その目だった。

もう、少しの情も残っていない。

「勘違いするな」

「俺が今の生活を与えてやってるんだ。お前が居れば、家政婦を雇う金もいらないしな。感謝しろ」

私は何も言えなかった。

言葉にした瞬間、心まで壊れてしまいそうだったから。

その夜、夕食を作った。

食材は、玲奈が選んだものだけ。

冷蔵庫の中には、高級スーパーの惣菜や輸入食材が増えていた。

以前のように、

「今日は何食べたい?」

と聞く相手はもういない。

食卓に料理を並べると、二人は向かい合って座った。

私は少し離れた場所に立ったまま。

「味、薄くない?」

俊哉が眉をしかめる。

「盛り付け、雑ね。もう少し、お料理の勉強した方がいいですよ」

玲奈も小さく笑った。

箸をつけながら、二人は文句を言い続ける。

「女として、なにもしてこなかったんですかぁ?終わってますよね」

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