ログインその日、私は掃除をしていた。
誰に言われたわけでもない。
ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。
朝から冷たい雨が降っていた。
窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。
以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。
「寒かったでしょ」 そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。
私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。
雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。
フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。
ソファの上には、玲奈のブランドバッグ。
テーブルには飲みかけのカフェラテ。 昨日までなかった香水の匂いが、この家に染みつき始めている。私は黙ったまま、床を拭き続けた。
すると、カツ、カツ、とヒールの音が近づいてくる。
ゆっくり顔を上げると、相沢玲奈が立っていた。
腕を組み、私を見下ろしている。
「……ねえ」
その声音は柔らかいのに、どこか人を試すようだった。
「そこ、ちゃんと掃除して。私、埃アレルギーなの。」
「……はい」
返事をすると、彼女は満足そうに笑った。
「素直で助かります。そういうところ、使いやすくて」
“使う”。
その言葉が、胸に残る。
まるで私は、人間じゃなく道具みたいだった。
けれど、玲奈はそんなこと気にも留めない。
私の横を通り過ぎ、ソファへ腰掛けると、スマホを操作しながら言った。
「でも、元々こういうこと向いてたんじゃないですか?」
「家庭的っていうか……他に取り柄なさそうだし」
返す言葉はなかった。
悔しいのに、何も言えない。
言い返したところで、また惨めになるだけだと分かっていたから。
昼過ぎ。
玄関のドアが開く音がした。
黒崎俊哉が帰ってきたのだ。
今日は珍しく機嫌が良さそうだった。
ネクタイを緩めながらリビングへ入ってきた俊哉は、私を見るなり口を開く。
「聞いたぞ」
心臓が小さく跳ねる。
「お前、ちゃんと掃除してるらしいな」
一瞬だけ、胸の奥に小さな期待が生まれた。
褒められたのかもしれない、と。
けれど。
彼はすぐに笑った。
「玲奈が言ってたぞ。“元カノさん、家政婦としては優秀”って」
元カノさん。
その一言で、心臓が強く跳ねた。
まるで、自分の存在を勝手に書き換えられたような感覚。
「……私、まだ別れ話されてません」
勇気を振り絞ってそう言うと、俊哉は一瞬きょとんとした顔をした。
そして次の瞬間、吹き出す。
「は?」
乾いた笑い声。
「何言ってんだよ、もう終わってるだろ。お前が居座ってるだけだ」
隣で玲奈も笑う。
「元カノさんって、立場にすがりつくタイプなんですね」
「見苦しい」
その言葉が、刃みたいに刺さる。
玲奈は俊哉の腕に軽く触れながら、わざとらしくため息をついた。
「俊哉、ちゃんと言ってあげないと……ひかるはもう、“彼女”じゃないって」
次の瞬間。
俊哉の手が、私の顎を掴んだ。
強い力。
逃げようとしても動けない。
「お前はな、俺に捨てられた、出来損ないだ」
指が食い込む。
痛い。
けれど、それ以上に苦しかったのは、その目だった。
もう、少しの情も残っていない。
「勘違いするな」
「俺が今の生活を与えてやってるんだ。お前が居れば、家政婦を雇う金もいらないしな。感謝しろ」
私は何も言えなかった。
言葉にした瞬間、心まで壊れてしまいそうだったから。
その夜、夕食を作った。
食材は、玲奈が選んだものだけ。
冷蔵庫の中には、高級スーパーの惣菜や輸入食材が増えていた。
以前のように、
「今日は何食べたい?」 と聞く相手はもういない。食卓に料理を並べると、二人は向かい合って座った。
私は少し離れた場所に立ったまま。
「味、薄くない?」
俊哉が眉をしかめる。
「盛り付け、雑ね。もう少し、お料理の勉強した方がいいですよ」
玲奈も小さく笑った。
箸をつけながら、二人は文句を言い続ける。
「女として、なにもしてこなかったんですかぁ?終わってますよね」
その日のSNSは、もはや炎上と呼んでも差し支えないほどの熱狂に包まれていた。 ロケ現場に居合わせた見物人が何気なく投稿した一本の動画。それは投稿からわずか数時間で爆発的に拡散され、再生回数は分単位で伸び続けていた。気づけば各プラットフォームのトレンド上位を独占し、芸能ニュースの速報でも取り上げられ始めている。『久遠ひかる、最高にカッコイイ!!』『あれって、カメリハのシナリオだったの!?』『あれ、マジだったら、俺なら二度と立ち上がれねぇ』『あの男の俳優、芝居とはいえ、かわいそうだったよな(笑)』 コメントは滝のように流れ、画面をスクロールしても終わりが見えない。 多くの人間が、同じ感想を抱いていた。 ——格が違う。 ただ美しいだけの女優ではない。 ただ演技が上手いだけでもない。 久遠ひかるは、見る者の感情を支配する。 動画の中で彼女が放った視線、張り詰めた空気、そしてあの一言。画面越しでさえ、逃げ場のない緊張が伝わってくる。 観た者は理解してしまうのだ。 この女優の前では、嘘もごまかしも通用しない、と。 そして——さらに噂が火に油を注いだ。『今日の久遠ひかるのセリフ、あれ、セリフじゃなくて、本当のことみたいよ』『相沢玲奈って、ちょっと意地悪そうな顔したモデルでしょ?』『あの娘があの男を寝取って、あの男もひかるを家政婦扱いしてたって聞いたよ』『マジ!? 五十八億円請求って、そういうこと?』 真偽不明の話まで広まり始める。 誰が最初に書き込んだのかも分からない。だが匿名の言葉は瞬く間に増殖し、やがて“事実らしきもの”として扱われていく。 それでも世論が傾くのに、時間はかからなかった。『久遠ひかるを家政婦にするなら、その金額も納得』 そのコメントを皮切りに、ひかるを擁護する声が殺到した。『むしろ安いくらい』『あんな女優、二度と現れないぞ』『見る目なさすぎだろ、その男』『逃した魚がデカすぎる』 人は、本物を見たとき、本能で理解する。 この女は——踏みにじっていい存在ではない、と。 かつて彼女を軽んじた男の名前など、もう誰も気にしていない。興味の矛先は完全に別の場所へ移っていた。 話題の中心は、ただ一人。 久遠ひかる。 動画はさらに編集され、切り抜かれ、様々な角度から再投稿される。スローモーションで彼女の表
ロケ現場には、まだ先ほどの言葉の余韻が色濃く残っていた。 久遠ひかるの宣告を受けた黒崎俊哉は、その場に立ち尽くしたまま、動けずにいた。 顔から血の気が引いている。 視線は宙を彷徨い、何かを言おうとしているのに、唇だけがかすかに動いて声にならない。(嘘だ……) 俊哉の頭の中では、その言葉だけが何度も繰り返されていた。(ひかるが……俺を……) 受け入れられない。 だが、目の前にいるひかるの表情には、一切の迷いがなかった。 それが何よりも残酷だった。 周りで見ていた誰もが、一言も発せず、微動だにしない。 スタッフも、報道陣も、見物人も、ただその光景を目に焼き付けることしかできなかった。 まるで一本の映画を見終えた直後のような、現実と虚構の境界が曖昧になる感覚。 今、自分たちは芝居を見ているのか。 それとも、本当に一人の女性が男との過去に決着をつける瞬間を目撃しているのか。 誰も判断できなかった。 そのときだった。 パン——。 乾いた拍手の音が、一つだけ響いた。 誰かが思わず手を叩いたのだ。 すると、その音に引き寄せられるように、次々と拍手が広がっていく。「ひかるサイコー!!」「ひかる、カッコイイ!!」 いつの間にか声援まで起こり始めていた。 見物人の中には涙ぐんでいる者さえいる。 ひかるは、その声を聞いても表情を変えなかった。 胸の奥では、別の感情が渦巻いていた。(……やっと終わった) そう思った瞬間、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。 怖かった。 あの男と向き合うことが。 過去を思い出すことが。 そして、自分の中に残っていた感情をすべて断ち切ることが。 それでも、もう戻るつもりはなかった。(私は、もう昔の私じゃない) その思いだけを胸に、ひかるは立っていた。 圧倒的なものを目撃したとき、人は称賛以外の反応を失うのだ。 ハッとした監督が我に返る。「カットォォォー!!」 腹の底から絞り出したような大声だった。 その一声で、凍りついていた空気が一気に動き出す。「撤収じゃない、次の準備!」「カメラ確認!」「音声、大丈夫です!」 スタッフが慌ただしく動き、現場にざわめきが戻っていく。 すると——ひかるの態度もスッと変わった。 先ほどまでの女王の気配は消え、そこにいるのは、いつもの柔らかな笑
「あなたって、本当に勝手な人ね。あなたには、あの彼女が居るじゃないの。あの彼女のために、私を家政婦代わりに使っていたんでしょ? やり直すのなら、あの、相沢玲奈さんじゃないのかしら」 声は静かだった。 まくしたてることも、感情を荒げることもない。ただ事実を並べるだけの声音が、かえって冷酷に響く。抑揚すらほとんどないその言葉は、刃物のように研ぎ澄まされ、俊哉の胸にまっすぐ突き刺さった。 周囲の空気がさらに冷える。見物人たちは息を潜め、誰一人として物音を立てようとしない。遠くで走っていた車の音さえ、別世界のもののように感じられた。 俊哉は、ひかるの手に自分の手を重ね、両手で握ると、言った。「違う!玲奈なんて好きじゃないんだ。俺が好きだったのは、ひかる、お前だけだ!」 必死だった。指先に力が入りすぎて白くなる。関節がきしむほど強く握りしめている。まるでこの手を離した瞬間、すべてが終わると知っているかのように。額から汗が伝い落ち、頬を濡らす。呼吸は荒く、体は絶えず震えていた。 だが——ひかるの顔は、驚くほど落ち着いていた。 ひかるはクスっと笑い、俊哉の手から、自分の手をスッと引いた。 その動きはあまりにも滑らかで、拒絶であることすら美しかった。まるで舞台の所作のように無駄がない。触れていた温度だけが、俊哉の掌に虚しく残る。「そうかしら…私はあなたたちが愛し合うのを、目の前で見ていたのよ。今更……」 淡々とした声。責める響きすらない。ただ、過去という事実を静かに置いただけ。だからこそ逃げ場がなかった。 俊哉の顔が歪む。頬の筋肉が引きつり、目の奥が揺れる。記憶が一気に押し寄せてきたのだろう。自分がどんな振る舞いをしてきたのか、どんな表情で彼女を傷つけていたのか——今さらながらに突きつけられる。「違うんだ!!信じてくれよ。だから、家政婦扱いなんて……」 言葉が崩れていく。自分でも何を言っているのか分からないまま、ただ否定だけを繰り返している。声は次第に掠れ、説得力を失っていった。 ひかるは妖艶に微笑んだまま動かない。 その瞳には、もう過去の男へ向ける温度が一切なかった。女優として生きる者の、明確な境界線——ここから先には踏み込ませないという、絶対の線が引かれている。近づこうとすれば、静かに切り捨てられる。そんな確信を抱かせる眼差しだった。 俊哉は
ひかるがカメラの前で笑って見せた時だった。 柔らかな微笑み。リハーサルの最中だというのに、その一瞬だけで空気が変わる。まるで透明な膜が張られたかのように、周囲のざわめきが遠のいていく。スタッフが交わしていた小声の確認も、機材のわずかな駆動音も、すべてが背景へと押しやられる。息を潜める気配が連鎖し、現場全体が静寂に包まれていった。——まさに主演女優のそれだった。 ひかるはただ立っているだけなのに、光の集まり方まで変わったように見える。朝の柔らかな陽射しが頬をかすめ、その横顔に凛とした影を落とす。誰もが思う。この女は、カメラが回っていなくても“画面の中心”にいるのだと。 そのとき、背後からかすかな声が届く。 相沢玲奈の「ねぇ……」という言葉。遠慮がちで、それでいてどこか粘つくような響きだった。ひかるに近づこうとするその足取りには、迷いと執着が混ざっている。 だが、その声に重なるように——いや、叩きつけるように響いた叫びがすべてをかき消した。「ひかる!!」 黒崎俊哉の声だった。 一瞬で、周りが静まり返る。ざわついていた見物人も、スマートフォンを構えていた報道陣も、言葉を失ったように動きを止める。まるで時間だけが切り取られたかのようだった。 俊哉は、ギャラリーの中から飛び出し、誰も止める間もなく、久遠ひかるの前に立った。警備スタッフが反応するよりも早い。制止の声が上がる頃には、もう彼は境界線の内側に入り込んでいた。まるで衝動だけで体を動かしているようだった。理性が追いついていない。 ひかるも驚いて、俊哉の顔を見つめる。 ほんのわずかに目が見開かれる。だがそれも一瞬で消え、すぐにいつもの静かな表情へ戻った。その切り替えの速さに、近くで見ていたスタッフが息を呑む。動揺すら、彼女は長く留めない。 俊哉は息を切らしながらひかるを見た。額に汗が滲み、肩が激しく上下している。ここまで走ってきたのだろう。いや——追い詰められた人間だけが見せる、逃げ場を失った呼吸だった。瞳の奥には焦燥と恐怖が混ざり合っている。「ひかる、俺が悪かった。頼む……頼むから、もう一度、俺とやり直してくれないか?」 懇願だった。 周囲に何百人いようと構わない。プライドも体裁も捨てた声。その響きは痛々しいほどで、見物人の中には思わず視線を逸らす者さえいた。 ひかるは無表情の顔で俊哉を
街中のロケ現場は、朝からざわついていた。 平日の午前だというのに、通りの一角にはすでに規制線が張られ、スタッフが慌ただしく行き交っている。大型の照明機材が組まれ、ケーブルが地面を這い、カメラが据えられた瞬間、そこはもう日常の街ではなく“作品の世界”へと変わっていた。 それでも完全に切り離すことはできない。遠巻きに人が集まり、ざわめきが絶えない。スマートフォンを掲げる者、背伸びして覗き込む者、小声で噂を交わす者——即席の観客席ができあがっていた。 藤崎優、久遠ひかる、結城美緒。 人気俳優が揃う撮影とあって、見物人の列ができている。「ねえ、あれ藤崎優じゃない?」「本物?背高……」「久遠ひかる、やばいくらい綺麗なんだけど」 興奮を押し殺した声が、波のように広がっていく。 中には、明らかに好奇心だけで来た野次馬もいた。「SNSで見た?怪物女優って言われてる人」「演技で人を支配するとか書かれてたよな」「実際どんな女か見てやろうと思ってさ」 期待と疑いが入り混じった視線が、一人の女優へと集中していく。 そのとき、付き人の篠原夕季が小走りで近づいた。スタッフを避けながら駆け寄る姿には、わずかな焦りが滲んでいる。「ひかるさん、また居ますよ」 ひかるはゆっくりと顔を上げる。 視線の先。 相沢玲奈が、人混みの中に立っていた。 帽子を深く被り、サングラスをかけているが、どこか落ち着きがない。視線だけが真っ直ぐこちらを射抜いている。偶然通りかかった人間のそれではない。明確な目的を持って、そこにいる目だった。 ひかるは何も言わない。 ただ一度だけ視線を向け、すぐに外した。 まるで取るに足らない風景の一部を見るように。 余計な感情を持ち込まない。その姿勢に、夕季は何も言えなくなる。 現場に緊張が走る。 助監督の声が響いた。「立ち位置確認しまーす!」 カメラリハが始まる。 本番前のこの時間は、静かな戦場のようなものだった。誰もが表面上は落ち着いているが、内側では集中を研ぎ澄ませている。ほんの数センチの立ち位置、わずかな目線の高さ、それだけで映像の印象は大きく変わる。 主演女優であるひかるが、快く動きを引き受ける。「ここから入ります」「もう一歩前でお願いします」 スタッフの指示に、迷いなく応じる。 立つ。 座る。 振り返る。
控室。 撮影の合間に与えられた、ほんのわずかな静寂がそこにはあった。廊下の向こうからスタッフの足音や機材を運ぶ音が微かに響いてくるが、この部屋だけが切り離されたように静かだった。 結城美緒は鏡の前に座り、自分の顔を見つめていた。 まだ役の余韻が残っているのか、頬にはうっすらと緊張が張り付いている。照明の下で作り込まれたメイクは完璧で、画面に映ればきっと隙など一つも見えないだろう。だが、美緒には分かっていた。完璧に見える外側とは裏腹に、胸の奥では何かが激しく渦巻いていることを。 テーブルに置かれたスマートフォンが小さく震える。通知が止まらない。 画面を開く。 そこには称賛と中傷が混ざっていた。【紗季ムカつく】【でも演技うまい】【新人とは思えない】 スクロールするたびに、似たような言葉が流れていく。否定だけではない。確かに評価はされている。業界関係者のコメントをまとめた記事にも、「新人離れした存在感」と書かれていた。 それでも——。 指が止まる。 トレンドランキングの上位に並ぶ名前。 主演、久遠ひかる。 その下に続く絶賛の嵐。 胸の奥に、小さな棘が刺さる。 自分も評価はされている。 だが、ランキングには入っていない。「……悔しい」 ぽつりと漏れる。 その声は、自分でも驚くほど低く、静かだった。 美緒は鏡の中の自分に問いかける。 どうすれば届く? どうすれば、あの場所へ行ける? スポットライトの中心。誰もが認める頂点。 視線を一身に集め、空気さえ支配するあの領域へ。 一瞬、黒い感情がよぎる。 蹴落とせばいい。 潰せばいい。 そんな考えが、まるで囁くように頭をかすめた。芸能界では珍しい話ではない。誰かの失敗は、誰かの好機になる。話題を奪い、ポジションを奪い、上へ行く者もいる。 だが——美緒は小さく首を振る。 SNS上で、あれだけの酷評を流しても、ものともせず、演技で見返してきた『久遠ひかる』を、この先、どうやって蹴落とせば、自分が上にいけるのだろうか。 想像してみる。 悪評を流す? スキャンダルを狙う? もう一度、父に頼んでスポンサーを動かし、俊哉と玲奈をたきつけて…… いっそ、さらって辱めて……… ——違う。 たとえ一瞬落とせたとしても、あの女は必ず戻ってくる。 もっと強く、もっと大きくなっ
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。
次の瞬間、頬に衝撃が走った。「口答えするな!!」視界が揺れ、体が傾く。床へ倒れ込んだ拍子に、テーブルの脚へ肩をぶつけた。鈍い痛みが走る。けれど俊哉は、そんなこと気にも留めなかった。「お前さ、最近調子乗ってるよな?」「誰のおかげで生活できてると思ってんだよ」怒鳴り声が、耳の奥で反響する。昔は、こんな人じゃなかった。少なくとも、ひかるはそう信じていた。仕事で失敗して落ち込んでいた夜、「お前がいてくれるだけでいい」そう言ってくれた男だった。雨の日、傘を差しながら、「風邪引くなよ」と肩を抱いてくれた人だった。でも。その優しさは、いつの間にか消えていた。倒れかけた
――彼に殴られたのは、これが初めてではなかった。けれど、「愛している女がいる」と、はっきり言葉にされたのは、今日が初めてだった。頬の奥が熱い。殴られた衝撃で耳鳴りがしているのに、不思議と痛みは遠かった。ただ、胸の奥だけが、じわじわと冷えていく。床に座り込んだ私を、婚約者であるはずの、黒崎俊哉(くろきしゅんや)は見下ろしていた。そこにあるのは怒りでも、罪悪感でもない。ただ、鬱陶しそうな視線。まるで、自分の生活を邪魔する“何か”を見るような目だった。「なあ、いつまでそんな顔してるつもりだ?」低く、冷たい声。まるで、床に落ちたゴミに話しかけるようだった。ひかるは答えられな







